大崎の水

水が届くまでの仕組み

大崎市で使われている水の半分以上は、漆沢ダム(加美町)の水を取り入れた麓山浄水場から送られます。
その後、古川地域の天望配水場、三本木地域の白坂配水場、松山地域の第1配水池、第2配水池、鹿島台地域の鷹待嶽配水池、田尻地域の小塩配水池で受水をし、各地域へ水を送ります。
その他の水は、古川地域の清水浄水場や岩出山地域の岩出山浄水場、鳴子温泉地域の青山浄水場等できれいにしてから送ります。

漆沢ダムから水道水が届くまで

水が届くまでの仕組み解説図

※クリックすると拡大した図(PDF)がみられます。

大崎水道水の歴史

大崎市古川地域の水道は宮城県内では最も古く、日本全国でも横浜市などに次ぐ歴史をもつ水道です!平成18年の合併に伴い、1つの上水道と7つの簡易水道事業に統合されました。

  • 導水管布設工事の様子
    導水管布設工事の様子
  • 取水塔(昭和2年)
    取水塔(昭和2年)
  • 水源改良工事の様子
    水源改良工事の様子

古くから良水に恵まれず、下水が混入し、汚濁した水を飲料に

  • 良質な水に恵まれない地域だった
  • 緒絶川の水をやむなく、飲料に使用していたが、下水が混入し、汚濁するなど飲料に適さなかった

明治12年:全国的にコレラが大流行し、患者数は16万人超に及ぶ

  • 宮城県内でもコレラが大流行となった
  • 避難病院に収容された患者の治療は、県立病院の医師が担当。感染を恐れた看護人などは、よりつかないなど、パニック状態に
  • 明治15年には、さらにコレラが猛威をふるい、100人以上の患者が発生し、60人以上が死亡するという非常事態に陥った

明治15年:永澤才吉が古川村戸長に就任

  • 永澤は、コレラの流行は、飲料水が原因だと主張
  • 水道の必要性を強く訴え、村議会に水道敷設の案件を提出し、賛成を得た
  • 莫大な工事費を要するため、有志328人の「水工会」を組織、4千4百万円の資金調達
  • 関西の製造元から土管を購入すると経費が多大にかかるため、仙台堤町、その他から職人40数人を雇い入れ、製造に着手。しかし、使用に堪えるものができなかった。岐阜県人平山陽三を教師として招き、さらに囚人56人を借用して対応した

明治17年3月:ついに、水道が完成!

  • 当時としては、近代的な浄水方法(沈澱濾過池)を採用した水道が完成
  • 当時の人口は、6,551人。このうち、給水人口5,481人で約83%の給水率だった
  • 日本で初の水道に関する法律(水道条例)が公布されたのは、明治23年。それ以前に、古川の水道の歴史はスタート
  • 掘り出された井側、給水管は土管
    七日町「富士東商店」敷地から原形をとどめて掘り出された井側、給水管は土管
  • 当時の土管
    大崎市水道部に保管されている当時の土管

水神さま

上古川の上下水道部の裏に鎮座している水神さま。毎年6月1日からはじまる水道週間にちなみ、水神祭がおこなわれている。
上下水道部敷地内の水神の碑は、第三次拡張で夜鳥の水源を改良した時、良質豊富な水源を祈願して明治27年12月、建立。昭和43年に現在地へ移設した。

水神さま